私、雲田康夫のエッセイ(米国における豆腐普及の奮戦記)が月刊文藝春秋2005年11月号の巻頭随筆のコーナーに掲載されました。 |
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以下に、誌面の都合上全文を載せられなかった、オリジナルのコラムの文章を掲載します。
雲田康夫 長嶋茂雄さんは日本で“ミスタージャイアンツ”と呼ばれている。私は恥ずかしながらアメリカの日系人社会で“ミスター豆腐”と呼ばれている。同じ“ミスター”といっても知名度は比べるべくもないが、長嶋さんがプロ野球にかける情熱に負けないぐらい、“アメリカ人家庭の食卓に日本伝統の豆腐を!”と情熱を傾けてきて、気がつくと20年も経っていた。今年は森永乳業の米国現地法人ができて20周年になる。 1979年に森永乳業は防腐剤なしで豆腐を長期保存できる無菌包装パックの製造技術を生み出し、販売しようとしていた。ところが、「中小企業分野調整法」という中小企業の豆腐屋さんを保護する法律があったため、事実上日本国内では豆腐を売ることができなかった。そこで海外に販売チャネルを求めることになったのだ。 当時、アメリカ人の間で健康食ブームが高まるにつれ、日本食が健康に良いということで大流行し始めたという記事がよく新聞に載るようになっていた。特にベジタリアンに良質のタンパク源として豆腐が注目されているというのだ。そこで、米国に現地法人を設立して豆腐を販売することになり、1985年に辞令を受け、初代の責任者として米国赴任し駐在生活が始まった。 日本食が注目されているということでなんとかなるだろうと楽観視していたが、実際に業務を開始してみると状況は思っていたのとは全く違っていた。アメリカでは豆腐という言葉はある程度知られていても、アメリカ人の一般家庭で食卓にのぼることは全くないのが実情だったのだ。豆腐の販売に力を注げば注ぐほど、泥沼に足がとられる感じで目の前が真っ暗になった。あるフードショーで、あまりに疲れていて路上に豆腐を数ケース置き忘れたことがあったが、翌日行ったらそのまま持ち逃げされることもなく置き忘れたままに残っていて、悔しい思いをしたことがあった。また1992年のロサンゼルス暴動では韓国系グローサリーストアが襲われた。そのとき、トイレットペーパーやコカ・コーラまで略奪されたというのに豆腐だけがそのまま残っていたこともあった。 1987年にアメリカ唯一の全国紙USA TODAYに「アメリカ人が嫌いな食べ物ナンバーワンは豆腐」という記事が載ったときには、さすがにストレスで頭にハゲができるぐらいショックを受けた。このとき、広告代理店の人に「アメリカ人が豆腐のことを知っているとわかっただけでもいいことだ。アメリカ人が豆腐を嫌いな理由を分析すれば道は開けるのでは」とアドバイスを受け、その理由を探ってみた。原料の大豆は家畜の餌とされていて、人間の食べ物と認識されていないこと。TOFUのFUをアメリカ人は強く発音しないのでTOE(つま先)に聞こえてしまうこと。水の中でゆらゆら揺れているものは「悪魔の舌」と言われ気持ち悪がられること。豆腐独特の風味がアメリカ人には履いたあとの靴下の臭いに似ているらしいこと。食生活の違いから、日本での豆腐の食べ方がアメリカ人には受け入れてもらえないことなど、多くの理由が判明した。これだけの壁を越えるのがどれだけ大変かと思うと、これなら早く会社をたたんで日本に帰ったほうが損失が少ないだろうと何度考えたかわからない。 だが日本男児、白旗を立ててそうおめおめと帰国するわけにはいかない。考えて考えぬいた末に一つの結論に至った。豆腐は必ずアメリカ社会に受け入れられると信じようと。理由は簡単。米国で死因の一番は心臓病。コレステロールがないタンパク質が生きていくために必要じゃないか。また街を歩いてすぐ目に付くのが実に肥った人が多いこと。豆腐はダイエットにぴったりだ。 そうと決まれば、できる限りあらゆることをやるしかない。東に豆腐に興味を持つバイヤーがいると聞けばすぐ会いに行き、西にフードショーがあると聞けばミキサーを片手に旅芸人よろしくトーフシェイクの実演販売をしにいった。やっと大手スーパーのバイヤーに会えたと思ったら、ペットフードのバイヤーだったこともある。 豆腐を売るためにはまず自分が豆腐の広告塔になろうと決心した。日系の日本語新聞に豆腐販売の奮戦記を連載したり、日系ラジオ局で豆腐の話題でトークショーを持ったりした。ロサンゼルスマラソンで豆腐の着ぐるみを着て走り、アメリカのテレビ局を驚かせたこともある。愛車のナンバーも「TOFU A」にした。ナンバーを見たアメリカ人は一番嫌いな食べ物をよくプレートナンバーするなとあきれていたようだ。極め付きはクリントン大統領(当時)に豆腐1ケースと料理本を一緒に送ったこと。ラジオのあるインタビューでヒラリー夫人が、“クリントン大統領はジャンクフードが好きで困るの。このごろ豆腐を勧めているの”と語っているのを聞いて、ホワイトハウスに豆腐とレシピ本を送った。するとどうだ。3週間後にヒラリー夫人から礼状が届いて感激したこともいい思い出だ。 そうこうしているうちに、なんとか豆腐事業も軌道に乗るようになった。オレゴン州に豆腐工場を設立し、毎日10万丁を製造、出荷し、アメリカ全州のスーパー1万8千店で販売するようになった。20年経ってアメリカで豆腐は、“市民権”を取得したかどうかは難しいが、“グリーンカード(永住権)”までは取れたのではないかと思う。 この20年間、サラリーマン生活の半分以上になるが、寝ても覚めても豆腐のことばかり考えていた。女房、子供のことより豆腐のことを考えている時間が長かったのは確かだ。豆腐は自分にとって“男のロマン”だった。でも、豆腐事業も人間で言えば20歳。独り立ちするときである。これを期に一歩下がって後輩の指導に力を入れ、温かい目で手塩にかけた豆腐の行く末を見守っていきたいと思っている。 |
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